似合う服を選ぼう
骨格診断とカラー診断の結果をもとに
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ファッション未来を歴史から見る
パーフェクト・ワードローブとファッションの歴史
みなさんはファッションと聞いて何を思い浮かべますか?
人々を魅了し続けるデザイナー
シーズンごとのコレクション
華やかなファッション誌
デパートの婦人服売場
では、これらはどのように生まれたのでしょうか。そして、未来のファッションはどこに向かうのでしょうか。
パーフェクト・ワードローブ設立に至るまでのファッション業界の歴史を簡単にご紹介いたします。
長い歴史を持つファッション業界ですが、デザイナーの登場、技術の発展と既製品化、大量生産とそれを支える消費を促す仕組みの発展、ファストファッションの誕生、近年問題になっている環境問題、そして「似合う」という概念の登場、と続きます。
By Diliff - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42693401
ローズ・ベルタンの活躍
服を着る人が主人公の時代
服飾品の歴史は人類の歴史。
服飾品のデザインは様々なものがみられますが、それらの提供のされ方は、19世紀半ばまでほぼ同じであったと考えられています。それは、服を着る人が、それぞれの目的に合わせて作っていたということです。
一般的な庶民は家で家族が作っていました。豊かな王侯貴族や商人は、気に入った生地を購入し、縫製婦、お針子と呼ばれる人たちに依頼して服を作らせていました。
縫製婦、お針子のほとんどは無名ですが、18世紀のフランスでマリー・アントワネットに仕えたローズ・ベルタンは記録も多く残り、彼女の活躍が、今に続くファッションの中心としてのパリの地位を築きます。
写真はマリー・アントワネットがベルタンに作らせたドレスを着たとされる肖像画で、1787年の作品です。
Marie Antoinette de Lorraine-Hasbourg and Her Children by Élisabeth-Louise Vigée-Le Brun (1787) Versailles, Musée national du Château et des TrianonsThe Queen is shown in an up-to-date outfit created by Bertin.
Public Domain
シンガーミシンの誕生
誰にでも縫製ができる様に
ミシンはファッション業界に大きな変革をもたらしますが、その登場は早く1738年。その後、様々な機械的な改良が進み、1854年、現代のミシンとほぼ同じ機構のシンガー・ミシンの登場によって完成します。
それでもミシンの利用は長い間、家庭内の簡単な服作りに限られていました。のちに登場するファッション誌にはドレスなどの「パターン」が掲載されるようになり、婦人は生地を買い、自分や家族の着る服飾品を作っていました。
ミシンが本格的に大量生産・大量消費の一端を担うようになり、誰がどのように着るのかわからない服が作られるようになるのは、20世紀初頭のサイズの標準化を待つことになります。
takomabibelot - originally posted to Flickr as Isaac Singer's 1854 Patent Model For Improvements To His Sewing Machine At The National Portrait Gallery (Washington, DC)
CC2.0
チャールズ・フレドリック・ワースがパリに出店
デザイナーの登場
現在我々が知るファッション業界の生みの親はチャールズ・フレドリック・ワース。彼は多くの革新的な試みを成功させますが、その最も大きな功績は、顧客が彼の提示するデザインに従うという、それまでとは逆の文化を作り上げたことです。また、彼の服には彼の名前がブランドとして記されていました。
現在でいうデザイナーの誕生です。
これを可能にする為に、彼はそれまで別々であった生地の選定、洋裁の技術等をまとめて売り出しました。また、彼のサロンでは、定期的に新しいデザインが発表され、人間がその服をまとって見せていました。いわゆるコレクション、そして、ファッション・ショーの原型が出来上がりました。
ワースのサロンは、現在で言うオートクチュールですが、のちに既製品が普及した後も、この習慣は大きく変わりませんでした。
英国生まれの彼は、修行中にパリに渡り、1858年に独立。7 Rue de la Paixに「Worth and Bobergh」を開店します。今のオペラ座のあたりです。
ワースはフランス、オーストリアの王侯貴族に愛され、フランスのウジェニー皇后のお気に入りになったことで、その名声は頂点に達します。
Illustration to "Paris Dressmakers" by M. Griffith, published in The Strand Magazine no. 48, Vol. VIII, July to December 1894. Text and images reproduced at http://www.avictorian.com/fashion_paris_dressmakers.html
House of Worth, 7 rue de la Paix, Paris.
Public Domain
ファッション誌「ハーパース・バザール」の創刊
ファッション雑誌の登場
1867年、パリを中心にしたヨーロッパのファッションを取り上げる新聞(週刊)がニューヨークで発行され、台頭したデザイナーと、ヨーロッパの最先端のファッションを海をこえてアメリカに伝えました。
のちに、ファッションだけではなく、社会問題なども取り上げられるようになります。例えば、19世紀が終わる頃からは、英国で起こった女性参政権運動の積極的に取り上げ、多くの支持を得て、社会的な地位を築きます。
女性の心を掴んだファッション誌は、ファッション業界の発展に欠かせないものになってゆきます。
Reprinted in American Heritage, June 1962
Cover of Volume I, No. 49 of Harper's Bazar (Now Harper's Bazaar), showing hairstyles
Public Domain
百貨店「セルフリッジス」の開店
「物を買うことを楽しむ」文化の開花
セルフリッジスは世界で初めての百貨店ではありません。産業革命と共にあふれ始めた物を売る「百貨店」の歴史は19世紀半ばまで遡り、1838年にはオー・ボン・マルシェがパリで開店し、レースやリボン、マットレス、ボタン、傘などまさに百貨を販売していました。皆様ご存知のロンドンのハロッズも、その原型が1834に開店します。
その様な中、1909年のロンドンに開店した「セルフリッジス」は、買い物を、生活に必要な物を必要なだけ購入する作業から、物を買う行為そのものを楽しむ娯楽へと転換することに成功します。「お客様は常に正しい」というモットーのもと接客が大幅に改善。店内にはカフェや芸術作品の展示会、図書館等が設けられ、百貨店は都市の文化拠点として発達します。
このモデルは後に世界中の百貨店で採用されて行きます。
百貨店は、後に大量に生産される服飾品の販売の担い手として、大きく成長することになります。
この文章は、セルフリッジスを作ったゴードン・セルフリッジ氏の邸宅であった建物の一室で書かれています。
photo: Satoko 2019
サイズの標準化が始まる
大量生産・大量消費の始まり
服飾品の大量生産は一夜にして始まったわけではありませんが、大きく貢献したのは、アメリカのルーズベルト大統領の時代に行われた女性のサイズの標準化です。大恐慌の傷跡がまだ残る頃の出来事でした。
既にミシンが普及していたことに加え、ヨーロッパの流行が単純なシルエットになったこと、そしてサイズが標準化したことで、服飾品は本格的な大量生産の時代を迎えます。
あわせて、大量生産を支える大量消費を触発する仕組みとして、シーズンごとの商品の入れ替えが行われ始めます。これは、オートクチュールにおける年2回のコレクション発表を参考にして生まれました。
前シーズンの服は古い、今シーズンの服を買わないといけない、という習慣化がはかられます。
Conrad Poirier - This file has been scanned and uploaded to Wikimedia Commons with the gracious permission and cooperation of Bibliothèque et Archives nationales du Québec and Wikimedia Canada under the Poirier Project.
We see designers and seamstresses working on garment manufacturing Women clothes factory "Laniel Maurice Enrg" located at 7542, rue Saint-Hubert in Montreal.
Public Domain
ピエール・カルダンが既製服のコレクションを発表
プレタポルテの誕生
既製品化の流れはオートクチュールにも影響を及ぼしはじめ、1959年にはピエール・カルダンが既製品のコレクションを発表します。これは、既に中流階級向けに普及していた既製服との違いを印象付けるために「プレタポルテ」と命名されました。
1966年、既にディオールなどで名声を得ていたイヴ・サン・ローランは、プレタポルテの「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ」をオートクチュールのメゾンが立ち並ぶパリのセーヌ川右岸に開店します。
デザイナーの高田賢三氏がパリに渡り、「ジャングル・ジャップ(後のケンゾー)」を立ち上げ、このプレタポルテの流れを引っ張るのは、もう少し後です。
多くのオート・クチュールのメゾンがプレタポルテに進出をしました。
source: The Yves Saint Laurent boutique on Rodeo Drive in Beverly Hills, California
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ラルフ・ローレンの設立
ライフスタイル提案の始まり
ラルフ・ローレンは、移民の子としてアメリカで育ちますが、ブルックス・ブラザースなどで働いた後、1967年にネクタイの会社を設立します。
その翌年にはラインアップを大きく広げ、古き良き上流階級のライフスタイルを豊かになった中流階級に提案するようになります。自らも先頭に立って、店構えから広告まで、一貫したブランドイメージ作りを行いました。
彼はブランド名を上流階級の象徴であった乗馬球技のポロからとり、「ポロ・ラルフ・ローレン」と名付けます。
このライフスタイルを提案する手法は、この後、多くの企業に取り入れられます。
Arnaldo Anaya-Lucca - File:Arnaldo Anaya Lucca w Ralph Lauren.jpg
パーソナルカラー診断の本の出版(日本)
「似合う色」をもとにしたイメージ戦略の誕生
なぜ、同じ服を着ても似合う人と似合わない人がいるのだろう。
1920年代に遡る似合う色合いの研究は、既製服の普及と種類の増加によって脚光を浴び始めます。当初、イエローベース、ブルーベースの2色に始まった研究は、春夏秋冬の四季の4分類に進化し、カラー・コンサルタントという職業を生み出します。
1960年代にはテレビの普及によりアメリカの大統領や有力な政治家がこぞってカラーコンサルタントを雇い、有権者へのイメージ戦略に力を注ぐようになります。
1980年にはアメリカのファッションアカデミーにて、「カラー・ミー・ビューティフル」という講座が開講されて人気を博し、同名の書籍も販売されます。
この書籍は1986年に翻訳され日本に紹介されます。関心を持った人々が渡米して似合う色合いの理論を学び、持ち帰って、日本にカラー・コンサルティング・サロンが設立されるようになりました。
Michel Chevreul - Linda Hall Library
Exposé d’un moyen de définir et de nommer les couleurs, planche 3.
Public Domain
骨格診断の誕生
イメージ戦略理論の進化
1996年、二神弓子が骨格診断研究家の柘植氏から 「骨格構造によるファッションコーディネート理論」の原型を引き継ぎます。その後数年にわたり検証が重ねられ、現在の「骨格診断メソッド」が確立されます。
2002年には「骨格診断ファションアナリスト養成講座」を開講。今までに多くの骨格診断アナリストが誕生。様々な場面で活躍をしています。
2013年、骨格診断メソッドの正しい普及を目指して「骨格診断ファッションアナリスト認定協会」が設立されます。合わせて、検定試験が開始され、一定の基準をクリアした骨格診断ファションアナリストに対しては、協会から認定証(ディプロマ)を発行されるようになります。
「骨格診断メソッド」は、主要なファッション誌にも取り上げられ、書籍も多く出版され、幅広く受け入れられるようになりました。
photo: Y. Futakami
H&Mの日本進出
ファストファッションの台頭
1980年代、日本や西ドイツ(当時)の追い上げに苦しむアメリカでは産業の立て直しがはかられます。当時、特に落ち込んでいたアメリカの繊維産業の再興が模索される中、重要視されたのが、早く商品を送り出すこと、そして、不要な部品や在庫を出来るだけ持たないことでした。
しかし、この手法を使ってファッション業界で最も成功を収めたのは、スウェーデン発のH&M、スペイン発のZaraではないでしょうか。
ファッション業界では、企画から商品が店頭に並ぶまで1年以上の時間を要していましたが、これを数週間にまで短縮。また、化学繊維を巧みに取り入れることなどで、流行の最先端を行くおしゃれな服を格安な価格で提供することに成功します。
これは、ファストフードにならって、ファストファッションと呼ばれるようになります。
工業化を経て、既製品化、大量生産・大量消費化したファッション業界は、様々な進化を遂げ、流行ファッションを早く、手ごろな価格で購入できるファストファッションに発展しました。
photo: Satoko 2019
第1回コペンハーゲン・ファッション・サミット開催
環境汚染問題への注目
2009年、デンマークで開催された国連の第15回気候変動枠組条約締結国会議(COP15)に合わせて、ファッション業界の環境問題を議論する会議「コペンハーゲン・ファッション・サミット」が開催されました。
ファッション業界による地球環境への負荷は業界別で第2位。第1位は石油や天然ガス等のエネルギー業界です。アジア、アフリカなどの国々がさらに発展し豊かになる過程で、ますます環境負荷が増大することが予想されています。
「自動車の排気ガス規制のように、政府が規制に乗り出すのではないか」
「政府の介入が起こる前に、自主的に環境保護に舵を切ろう」
ファッション業界の本気の取り組みが始まりました。
photo: Satoko 2019
パーフェクト・ワードローブのはじまり
骨格診断、カラー診断の結果をもとにした似合う洋服が選べるサービスの開始
自分に似合う服だけが並んでいれば、どんなに買物が楽しくなるのだろう
似合う服が簡単に選べれば、服を着るがどんなに待ち遠しくなるのだろう
似合う服は、どれだけの人の自信を取り戻すことができるのだろう
これらの思いから、2016年に「パーフェクト・ワードローブ・プロジェクト」は始まり、法人が英国ロンドンに設立されました。
2017年、世界中のイメージ・コンサルティング手法の検証を経て、骨格診断の理論とカラー診断の理論を掛け合わせたサービスの開始が決定されます。日本からサービスを開始し、中国、韓国などのアジア各国、米国や欧州、中東への事業展開が決まりました。
デザイナーの台頭、工業化、既製品化、大量生産を経て今の姿の発展したファッション業界。併せて、消費を促す手法が発達し、おしゃれなファッション誌が書店を飾り、インフルエンサーが人気を博するようになりました。
次は、今まで受け身なことが多かった消費者が一段と賢くなり、自らに「似合う」洋服を選んで、鏡に映る自分の姿に自信を持ち、仕事も遊びも今まで以上に積極的に楽しむ。
このような社会が来ますように。
2018年5月からは招待制でのサービスを開始。2020年1月より、更に多くの皆様にご利用頂けるようになりました。
Photo: Satoko 2019
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Perfect Wardrobe Journal
お客様の声
サーモンピンクのドレスは最初に袖を通した時から、とても心が躍りました。少し丈詰めをしてみます。
ファッション一つで心を引き上げられることも、人からお声がけを頂き、チャンスが広がることもありますので、もっと学びたいと思います。
(N.K様 主婦)
お客様の声
お手入れの仕方を教えてくださいまして、ありがとうございます。
最近の日本のファッションはカジュアルな服が多いので、きちんと似合う服を選ぶと、人から褒められるのだと思います。
日本の20代、30代のファッション誌のカジュアルな服ばかりで、表紙も「オシャレな人は冬もカジュアル!」で残念に思っていました。
(A.K様 会社員)
お客様の声
先週は素敵なワンピースをお見立てくださりありがとうございます。早く着られるように、早速お直しをお願いしました。
素敵な〇〇さん(イメージコンサルタント)との出会いと、ご縁を頂き、感謝をしております。いつも本当に素敵な着こなしですね!
(Y.K様 主婦)
お客様の声
落ち込んで、元気のない時に、似合う服を着てカフェに行きました。
「素敵ですね」と声をかけられて、話が弾んで、良いセンスをしているからとお仕事を依頼されました。
見た目と信頼度は比例すると本で読みました。すこし面倒ですけど、おしゃれをすることで仕事の幅が広がるのを感じます。
(A.K様 デザイナー)
お客様の声
パーティーの司会のお仕事をしています。華やかな雰囲気にしたいと思い、似合うとお勧めされた花柄、パステルトーンのドレスにしました。
普段はお仕事でも着ない服なので、緊張しましたが、みんなに良かったと褒められて、嬉しかったです。
仕事柄、外見は大切だ思います。
(K.K様 ナレーター)
お客様の声
診断を受けるまでは、身長が低いのでミニスカートの方がバランスが取れると思っていました。
診断を受けて、似合うパターンを知って、似合うドレスを着てみて、膝などは隠した方がエレガントであることを知りました。
これからは似合うドレスで魅力を高めて行きたいです。
(H.N様 飲食店経営)